湯津上の人物
旧湯津上村に関係の深い人物をピックアップしています。
- 「記載欄」は「栃木県歴史人物事典」(下野新聞社1995刊)の記載の有無。
- 主に「栃木県歴史人物事典」「湯津上村誌」より作成しました。
生年・活躍年が江戸時代以前の人
人物名 | 事跡 | 生年 | 没年 | 記載 |
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植竹丈野 (うえたけじょうや) |
湯津上生まれ。独学17才にして高久小学校の教師となる。各小学校を歴任し、明治22年及び同30年、湯津上小学校に勤務。笠石神社境内に頌徳碑がある。 | 1867 | 1934 | |
大金豊後守 (おおがねぶんごのかみ) |
鷹ノ巣城主で、梅平の大金備後守重宣の弟。 | |||
木曽武元 (きそたけもと) |
通称長次郎。私塾を開いて師弟の教育に当たる。著書に『那須拾遺記』16巻(1733年)がある。 | ○ | ||
佐良土宮内少輔 (さらどくないしょうゆう) |
那須資晴の父那須資胤の家臣。佐良土に住した。 | |||
真理谷清雲信胤 (まりやせいうんのぶたね) |
上総国(現千葉県)長南城の城主であったと伝えられている。清雲の門人堺忠次信広の縁で佐良土(さらど)へ移り永住。湯津上に墓碑がある。 | 1544 | 1627 | |
鈴木助左衛門 (すずきすけざえもん) |
片府田村(旧湯津上村)の人。江戸時代後期の用水開削の功労者。同郷の吉成文平とともに村民を説得の上、片府田村上郷に用水を引き入れた。 | ○ | ||
那須資晴 (なすすけはる) |
那須資胤の子。那須家を相続し烏山城主となるが、小田原攻めの際に秀吉からの参陣に応じず、八万石の所領と烏山城を没収され、佐良土に引退。墓所は玄性寺(大田原市)にある。 | 1609 | ○ | |
那須直韋提 (なすのあたいいで) |
古代那須地方の有力豪族。那須国造を務め、評督に任命される。死後顕彰され那須国造碑(旧湯津上村)が造立される。 | 700 | ○ | |
諸葛琴台 (もろくずきんだい) |
下蛭田村生まれ。通称次郎大夫。鬒髪山人、涵月樓と号す。儒学者。幼少より学問を好み江戸にて漢学を学んだ。著書に『焚書収燼』、『鬒髪山人集』、『経学或問』などがある。 | 1748 | 1810 | ○ |
吉成信義 (よしなりのぶよし) |
通称利兵衛。江戸時代後期の名主。蛭畑開発の功労者。領主花房氏にはかり、用水堀を開削整備し原野を開拓。 | 1812 | 1868 | ○ |
生年・活躍年が明治以降の人
人物名 | 事跡 | 生年 | 没年 | 記載 |
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井上平五郎 (いのうえへいごろう) |
品川弥次郎の依頼により品川開墾の管理者となり、,傘松信用組合の組合長を30年間務めた。 | 1860 | 1935 | ○ |
品川弥次郎 (しながわやじろう) |
長州萩松本村(山口県萩市)生まれ。湯津上村蛭田と大田原市鹿畑、倉骨の元官有地の開拓を手掛ける。品川開墾の創始者。平田東助と傘松信用組合を設立。 | 1843 | 1900 | ○ |
谷邦夫 (たにくにお) |
佐良土生まれ。歌人。若山牧水に師事。「橄欖」同人・選者。「当道」主宰。「下野歌人」会長。 | 1904 | 1991 | ○ |
野口青眉 (のぐちせいび) |
佐良土生まれ。本名規矩雄。歌人。「うねり」創刊・主宰。下野歌人会会長。 | 1893 | 1977 | ○ |
野口藤作 (のぐちとうさく) |
栃木市出身。栃木県師範学校卒。多年小学校長を務める。明治36年光丸山の付属建物を借りて、私立聚星館を創立。 | 1869 | 1954 | |
平田東助 (ひらたとうすけ) |
品川開墾の経営者。貴族院議員、農商務大臣などを歴任。産業組合法の成立とその普及に努めた。品川弥次郎と傘松信用組合を設立。 | 1849 | 1925 | ○ |