黒羽の人物
旧黒羽町に関係の深い人物をピックアップしています。
- 「記載欄」は「栃木県歴史人物事典」(下野新聞社1995刊)の記載の有無。
- 主に「栃木県歴史人物事典」「黒羽町誌」より作成しました。
生年・活躍年が江戸時代以前の人
人物名 | 事跡 | 生年 | 没年 | 記載 |
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安藤東野 (あんどうとうの) |
黒羽藩医大沼丁庵の次男。儒学者。名を煥図、字は東壁、小字は仁右衛門、東野と号す。儒者荻生徂徠を師として学ぶ。柳沢吉保の儒臣となり、将軍徳川綱吉に経を講じた。 | 1683 | 1719 | ○ |
大関資増 (おおぜきすけます) |
大関高増の三男。外様大名。黒羽藩主。徳川家康の旗下に属し黒羽藩を確立。 | 1576 | 1607 | ○ |
大関高増 (おおぜきたかます) |
大田原資清の子。大関増次自刃の後大関氏を継ぐ。1576年には黒羽城を築き、白旗城より移ると共に、城下町形成に努め、近世黒羽藩の基礎を築いた。 | 1527 | 1598 | ○ |
大関増業 (おおぜきますなり) |
大関増陽の養嗣子。藩政改革を断行。殖産興業に尽力、学術と文芸に秀でる。『日本書紀』校訂本を刊行し、『止戈枢要』、『創垂可継』などを編纂。 | 1782 | 1845 | ○ |
大関増勤 (おおぜきますとし) |
最後の黒羽藩主。戊辰戦争では新政府軍に属す。明治2年黒羽藩知事となる。明治4年廃藩置県により東京在住となる。 | 1852 | 1905 | ○ |
大関増次 (おおぜきますつぐ) |
大関宗増の子。山田城攻防戦後に修築された白旗城を本拠とする。大田原資清に襲われ自刃。 | 1518 | 1542 | ○ |
大関増裕 (おおぜきますひろ) |
大関増徳の養子。幕府の陸軍奉行・海軍奉行・若年寄などを歴任。幕末期における軍制改革を進め、黒羽藩の藩政改革も断行した。 | 1837 | 1867 | ○ |
大関宗増 (おおぜきむねます) |
大関増雄の子。剃髪後、沙弥道丹と号す。大田原氏と争う。 | 1463 | 1544 | ○ |
大沼渉 (おおぬまわたる) |
幕末・明治期の軍人。陸軍少将黒羽藩士大沼泰英の子。旧黒羽町大字前田字郭内に生まれた。墓が光厳寺(旧黒羽町寺宿)にある。 | 1844 | 1899 | ○ |
興野隆雄 (きょうのたかお) |
黒羽藩の給人興野隆中の養嗣子。植林家。『太山の左知』の著者。黒羽神社に頌徳碑がある。 | 1790 | 1862 | ○ |
小泉斐 (こいずみあやる) |
画人。両郷村の温泉神社小泉家の養子。名は光定、字は子章。檀山、檀森斎、青鸞などと号す。島﨑雲圃に画を学ぶ。作品に黒羽周辺景観図、黒羽城鳥瞰図などがある。 | 1770 | 1854 | ○ |
鹿子畑翠桃 (かのこはたすいとう) |
余瀬生まれ。江戸中期の蕉門俳人。善太夫豊明。鹿子畑左内高明の次男。鹿子畑氏の居は、白旗城下の余瀬にあった。1689年松尾芭蕉を歓待。 | 1662 | 1728 | ○ |
浄法寺桃雪 (じょうぼうじとうせつ |
余瀬生まれ。江戸中期の蕉門俳人。図書高勝。鹿子畑左内高明の長男であるが、母方の浄法寺家の養子となる。黒羽藩の城代家老。浄法寺邸は黒羽城三の丸の一角にある。 | 1661 | 1730 | ○ |
鈴木掃部右門 (すずきかもんうもん) |
大蔵村(旧黒羽町河原)の名主。諱は重郷。開墾に尽力し村の収穫料を増加させた。 | 1612 | 1686 | |
鈴木武助 (すずきぶすけ) |
黒羽藩家老。江戸中期の農政家。諱は正長、為蝶軒と号す。『農喩』を著した。 | 1,732 | 1806 | ○ |
五月女三左衛門 (そうとめさんざえもん) |
黒羽藩士。1867年藩主大関増裕の死後家老に就任。翌年大関増勤より白河口出兵を命ぜられ、隊長として出兵。 | 1817 | 1880 | ○ |
武守真守 (たけもりさねもり) |
黒羽藩刀工。「黒羽藩士源真守造之」、「武守勝太夫真守」、「黒羽士源真守造」などと銘を切った作品がある。 | ○ | ||
土屋信親 (つちやのぶちか) |
下野黒羽に住み、黒羽藩の彫金師であった。出羽庄内の金工の名門であった土屋安親の後裔。 | 1852 | ○ | |
戸田茂睡 (とだもすい) |
黒羽で成長した江戸前期の武家革新歌人。茂妥とも。別号は、露寒軒、梨本、不求橋、馮雲寺、遺佚軒、最忍法師、不忘庵老茂など。歌学の革新を唱え近世歌学の魁をなした。 | 1629 | 1706 | ○ |
那須政資 (なすまさすけ) |
那須資房の子。資房による上那須・下那須統一以後、上那須・山田城(旧黒羽町)に拠り、大関宗増、大田原胤清などの支持を得て岩城氏、白河氏と戦う。 | 1546 | ○ | |
那須弓雄 (なすゆみお) |
黒羽藩士那須均の長男。第二師団歩兵団長。第二次大戦中陸軍で戦死した最初の将官。 | 1892 | 1942 | ○ |
那須与一 (なすのよいち) |
那須高館城主那須資隆の子。源平合戦屋島の戦いで扇の的を射た活躍が伝えられる。 | ○ | ||
仏応禅師 (ぶつおうぜんじ) |
東山雲巌寺第二世。諱は妙準。道号は太平。下野那須郡大豆田村礒家の出身。 | 1276 | 1327 | ○ |
仏国国師 (ぶっこくこくし) |
東山雲巌寺を開山。諱は顕日。道号は高峰。後嵯峨天皇の皇子といわれる。 | 1241 | 1316 | ○ |
仏頂禅師 (ぶっちょうぜんじ) |
常陸国鹿島郡生まれ。根本寺住職。雲巌寺に度々赴き、晩年は第四五世底徹に迎えられ、同寺で遷化。 | 1643 | 1715 | ○ |
船橋久兵衛 (ふなばしきゅうべえ) |
黒羽城下の阿久津村(旧黒羽町黒羽田町)・石井沢村(同黒羽向町)間の那珂川に船橋を架橋。屋号を釜屋と唱え釜屋久兵衛と称し、黒羽藩士大関氏から船橋の名字を与えられた。 | 1864 | ○ | |
松尾芭蕉 (まつおばしょう) |
『おくのほそ道』行脚では、黒羽の門人、桃雪や翠桃を訪れ十三泊逗留。雲巌寺、光明寺、犬追物の跡、玉藻の前の古墳などを見物。 | 1644 | 1694 | ○ |
松本調平 (まつもとちょうへい) |
黒羽藩士、勧農方の役人。羽田村(旧大田原市)生まれ。『勧農教諭書』を編述。 | 1818 | 1889 | ○ |
三田称平 (地山) (みたしょうへい・ちざん) |
黒羽藩士秋庭清房の子。幕末維新期の政治家・思想家・教育者。名は称平、号は地山。黒羽藩の郷奉行などをつとめ、藩校作新館の学頭となり、明治5年私塾地山堂を開く。 | 1812 | 1893 | ○ |
妙徳禅師 (みょうとくぜんじ) |
東山雲巌寺の中興開山といわれる。諱は宗岑。正覚山実相院光厳寺にも住した。 | |||
渡辺瀬左衛門 (わたなべせざえもん) |
両郷村(旧黒羽町)庄屋。諱は義和。村民の窮状を幕府に訴え救済された。 | 1760 | 1835 | ○ |
生年・活躍年が明治以降の人
人物名 | 事跡 | 生年 | 没年 | 記載 |
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新江寅 (あらえとら) |
黒羽町出身。弁護士。栃木県師範学校同窓会長。宇都宮大学教育学部同窓会長。 | 1872 | 1859 | ○ |
荒川高俊 (あらかわたかとし) |
黒羽向町生まれ。自由民権運動家。黒羽藩漢方医荒川静斉の三子。三田称平、福沢諭吉に学ぶ。国会開設運動や三大建白運動・大同団結運動で活躍した。 | 1856 | 1889 | ○ |
石川寒巌 (いしかわかんがん) |
旧黒羽町北野上生まれ。本名、寅壽。佐竹永邨について南画を学ぶ。その後小室翠雲に師事。日本南画院を舞台に活躍。新南画の領袖としてまた異端の南画家として各方面に影響を与える。 | 1890 | 1936 | ○ |
石川暮人 (いしかわぼじん) |
須賀川村出身。歌人。本名俊雄、道号英宗。短歌雑誌「下野草」「下野短歌」創刊。歌集に『菩提樹の若葉』『空華』『愛染抄』がある。 | 1894 | 1966 | ○ |
猪股槇之助 (いのまたまきのすけ) |
川西町生まれ。植竹三右衛門他12名と株式会社足利銀行創立発起人となり、取締役就任。 | 1868 | 1948 | ○ |
植木憲道 (うえきけんどう) |
名は義雄。東山雲巌寺第五八世住職。青少年教育の実践家。夏季林間学校、雲巌寺簡易高等学校を開設。無医村解消のための診療所開設や教育振興会の設立に尽くす。黒羽町名誉町民。 | 1871 | 1967 | ○ |
植竹熊次郎 (うえたけくまじろう) |
川西町生まれ。植竹三右衛門の長男。下野木材株式会社社長。父と共に植林開墾事業に努め、帝国造林株式会社社長となった。その他東野鉄道社長、黒羽銀行取締役となった。 | 1877 | ○ | |
植竹三右衛門 (うえたけさんうえもん) |
川西町生まれ。家業の醤油醸造業を営み、植林開墾に努めた。下野産馬組合長となり、黒羽銀行を創立し、貴族院議員をつとめるなど明治・大正期の県政財界の重鎮であった。 | 1854 | 1933 | ○ |
植竹春彦 (うえたけはるひこ) |
東京都生まれ。植竹三右衛門の養嗣子となる。東野鉄道株式会社社長。県経営者協会長。参議院議員。郵政大臣。県体育協会長。黒羽町名誉町民。 | 1898 | 1988 | ○ |
大関和 (おおぜきちか) |
黒羽生まれ。黒羽藩家老大関彈右衛門増虎の二女。大関看護婦会を設立し看護婦の養成指導に尽くした。 | 1858 | 1932 | ○ |
大平初太郎 (おおひらはつたろう) |
両郷村生まれ。両郷村長。黒羽町と両郷村を結ぶ長峯道路の付け替え事業を敢行。 | 1865 | 1927 | |
大町和太郎 (おおまちわたろう) |
黒羽町生まれ。黒羽町長、県会議員を務めた。 | 1871 | 1943 | ○ |
小山田辨助 (おやまだべんすけ) |
旧黒羽藩士。県会議員。 | ○ | ||
小山忠録 (おやまちゅうろく) |
明治22年5月から同25年1月まで黒羽町長(初代)。株式会社足利銀行株主で、その重役にも就任したという。 | 1853 | 1940 | ○ |
川嶋欣之助 (かわしまきんのすけ) |
北野上生まれ。旧黒羽町長を務め、昭和30年新黒羽町(旧黒羽町・川西町・両郷村・須賀川村が合併)の初代町長に就任。 | 1884 | 1970 | ○ |
岸良雄 (きしよしお) |
黒羽向町生まれ。植竹三右衛門の三男。本名、植竹喜四郎。歌人。文芸出版社「植竹書院」を経営。昭和32年歌集『花蓮』を刊行。 | 1884 | 1963 | ○ |
坂内伯意 (さかうちはくい) |
川西町生まれ。県会議員を二期務める。坂内家は代々医業に従事してきた家。 | 1852 | 1910 | ○ |
佐野規魚子 (さのきぎょし) |
黒羽町生まれ。本名秀俊。辻冬史庵、長谷川零余子の「枯野」、長谷川かな女の「水明」の同人となる。「黒羽俳句会」、大田原「蛙吟社」の指導者。栃木県俳句会長。 | 1888 | 1971 | ○ |
島田藤五郎 (しまだとうごろう) |
大豆田生まれ。五期にわたり県会議員を務める。 | 1901 | 1964 | ○ |
関谷雲崕 (せきやうんがい) |
河原生まれ。画家。名は登一郎。小室翠雲に師事。日本南画会、日本南画院、文展、帝展などに出展。 | 1880 | 1,968 | ○ |
関谷陽 (せきやたかし) |
黒羽町生まれ。洋画家。関谷雲崕の子。東京美術学校西洋画科卒業。従軍画家として中国各地を転戦。 | 1903 | 1989 | ○ |
戸村銀次郎 (とむらぎんじろう) |
須賀川村の篤農家、林政家。須賀川農林会長、下野産馬組合長、須賀川村長に就任。僻村振興を図り村有基本林を造成。 | 1867 | 1955 | ○ |
戸村大蔵 (とむらおおくら) |
須賀川村生まれ。戸村銀次郎の二男。昭和27年須賀川村教育委員長、昭和30年合併後黒羽町助役、昭和35年黒羽町長に就任。黒羽町名誉町民。 | 1987 | 1989 | ○ |
蓮実長 (はすみたけし) |
川西町生まれ。県立師範学校・県立大田原中学校教員などを歴任。教育者であり、郷土史研究の先駆者。著書に『那須郡誌』『故郷の先人』などがある。 | 1879 | 1976 | ○ |
原田善吉 (はらだぜんきち) |
足利市生まれ。教育者。星田金之助(両郷村)に招聘されて、両郷村に共存道場を創設し、全一経、農民道を普及。 | 1876 | 1958 | |
増田新七 (ますだしんしち) |
黒羽町生まれ。黒羽町議会議員。那須商業銀行・黒羽商業銀行創立頭取。 | 1854 | 1917 | ○ |
吉成隆 (よしなりたかし) |
両郷村生まれ。県立大田原中学校、県立師範学校卒業。両郷村尋常高等小学校長就任。昭和22年両郷村長就任。黒羽町名誉町民。 | 1895 | ||
渡辺政一郎 (わたなべまさいちろう) |
両郷村生まれ。三期にわたり県会議員を務め、両郷村長も務めた。 | 1868 | 1949 | ○ |